幼児的万能感の末路とは?【海外の反応、なんJ】
幼児的万能感の末路について語るならば、それは人間社会における「幻想の崩壊」と「現実の受容」という二つの大きな局面を通して、極めて痛烈かつ鮮烈に表出する現象であることを強調せざるを得ない。まず、幼児的万能感とは何かを簡潔に整理する必要があるだろう。これは幼少期に特有の、自分が世界の中心であり、すべてが自分の意のままになるという強烈な錯覚に基づく心的状態である。成長過程において、人はやがて他者の存在、社会規範、制約された現実に出会い、自己万能感の限界を知る。しかし、この「知る」というプロセスを円滑に通過できない場合、自己中心的な思考や過剰な理想主義、責任回避傾向といった特徴が成人後も残存する。それがいわゆる「幼児的万能感の後遺症」と呼べるものだ。
では、この幼児的万能感を引きずったまま社会に出た場合、何が起きるのか。典型的なパターンとして、社会的な挫折体験に直面した際、自己責任の概念を受け入れられず、他責的な思考に陥りやすいという傾向がある。例えば、職場での評価が低い、友人関係で孤立する、恋愛がうまくいかないなどの事象に直面した際、それを自分の努力不足やスキル不足ではなく、社会や他人が悪いと結論づけてしまう。なんJにおける「社会が悪い」「上司ガチャ」「親ガチャ」という言葉が、この現象の縮図として語られることがあるのは興味深い。これらの言説は一見社会批判として機能しているように見えるが、その内実は「万能感の破綻を他責に転嫁する」という心の防衛反応に他ならないことが多い。
一方で、海外の反応としては、日本社会特有の「空気を読む」「和を尊ぶ」という文化的背景が、幼児的万能感の持続を助長しやすい土壌を形成しているという指摘が多い。例えば、アメリカの心理学者が指摘するのは、日本の教育現場や家庭において、子どもが他者と衝突した際に「自分の意見を押し通す」ことが否定されがちであり、その結果として「空気を読む」ことで表面上の調和を保とうとする一方で、内面では「本当は自分の思い通りにならないと気が済まない」という欲求が潜在的に溜まっていくという現象だ。これは一種の「抑圧された万能感」の温床となり、成人後にそれが爆発する形で、いわゆる「承認欲求モンスター」や「自己愛性パーソナリティ」として表出することがあるという。
さらに、なんJでは「自己肯定感を高めよう」という風潮が散見される一方で、「勘違いポジティブ」のような言葉が生まれる背景には、この幼児的万能感の名残が色濃く影を落としている。「俺はやればできる」「本気を出せば勝てる」「まだ本気を出していないだけ」という言説は、まさに万能感の未消化な残骸であり、それが現実の社会で適応的に機能しない状況に置かれたとき、人は絶望感に苛まれる。つまり、幼児的万能感の末路とは、自己有能感を適切に育てる機会を逸し、他責的な思考と自己肯定感の空虚な膨張を抱えたまま、社会の荒波に晒され、失敗体験を繰り返しながらも、自らの非を認められず、最終的には「何もできない」「何者にもなれなかった」という絶望に沈む構図なのである。
労働市場においても、この影響は甚大である。例えば、就活での自己PRで「自分はリーダーシップがあります」と自信満々に語るものの、実際には協調性を欠き、他者の意見を聞き入れず、上司や同僚との摩擦を生むケースが散見される。あるいは、自己評価が高すぎるがゆえに、希望年収を高めに設定し、現実とのギャップに苦しむこともある。なんJでの「意識高い系爆死スレ」や「承認欲求の化け物」などのスレッドが盛り上がる背景には、こうした幼児的万能感の破綻劇が社会の至る所で繰り広げられているという現実がある。そして海外の反応では、日本人は「大人になること」の定義が曖昧で、社会的な成熟を義務づけるシステムが弱いため、精神的な幼児性が長引く傾向があるという指摘もされている。
最終的に、この幼児的万能感の末路は、自己責任と社会責任のバランスを見失い、自らを「被害者」の立場に固定し続け、挑戦する勇気を持てず、現状に不満を垂れ流すだけの存在へと変容してしまうリスクを孕む。この罠を抜け出すには、自己万能感の幻想を捨て去り、地に足のついた自己有能感の確立に向けた地道な努力を積み重ねるほかない。それは決して派手な成功体験ではなく、他者との小さな関わりの中で「自分ができること」を知り、受け入れ、鍛えていくという極めて地味で、しかし最も本質的な営みなのである。
この「自己万能感から自己有能感への移行」という地道なプロセスを踏むことなく、幼児的万能感のまま大人社会に放り込まれた個体は、往々にして「社会不適合者」というレッテルを貼られることになる。なんJではしばしば「ワイも結局何者にもなれなかった」「社会の歯車にすらなれん」という言葉が並び、ある種の共感とともに、諦めと自嘲の空気が漂う。しかし、この状況は果たして単なる「本人の努力不足」なのか?いや、決してそれだけではない。社会構造そのものが、幼児的万能感を「切り捨てる」機能を備えていないこと、さらに日本的な集団主義社会が「察する」「空気を読む」を重視することで、内面の未熟さを矯正する機会を奪ってしまうことも大きな要因だ。
例えば、欧米社会では子供の頃からディベートや自己主張を促す文化があるが、日本では「和を乱すな」「皆と同じでいろ」という無言の圧力が強い。この環境下で育った場合、自己万能感が露骨に指摘されることは少なく、むしろ「察しの文化」によって周囲が我慢を強いられる場面が増える。海外の反応としては、「日本人は幼稚な精神性を引きずりやすい」「責任を取る文化が弱い」「Noと言えないのは甘えではなく社会の構造的問題」という声も多い。このような背景があるため、幼児的万能感を持ったまま社会に出た個体が挫折を経験したとき、その苦しみは個人の問題に矮小化されやすく、社会システム側の責任は問われにくいのである。
さらに、この幼児的万能感の末路として特筆すべきは、「現実逃避」への依存である。現実社会での適応に失敗した結果、ネットの世界やゲーム、アイドル、ソシャゲ、そしてなんJや5chのスレッドの住人として「評論家気取り」にシフトする姿が見受けられる。「社会は腐ってる」「上級国民だけが得をする」「努力は無駄」という言説を繰り返しながら、現実の行動は何も変えず、変える勇気も持たない。これは一種の「万能感の残骸」を抱えたままの精神の最終形態とも言えるだろう。なんJでの「ワイら陰キャ、人生終了」「働いたら負け」などのスレッドは、幼児的万能感の敗北宣言であると同時に、同じ痛みを共有することで互いの傷を舐め合う慰めの場として機能している。しかし、その慰めは一時的なものであり、現実逃避のループを深めるだけである。
この点、海外の反応では「日本のネット文化は精神的な引きこもりを生む温床」「現実社会での失敗を匿名の世界で補償する仕組みが強い」「社会復帰への導線が弱い」という指摘が多く見られる。つまり、幼児的万能感が破綻した後、日本社会にはそれを再構築し、自己有能感へと導くためのリハビリ機能が極めて貧弱だという現実がある。これは労働環境におけるメンタルヘルス支援の不足、教育現場での失敗経験の肯定的な捉え直しの欠如、そして「転んだ者を起こさず、自己責任論で突き放す」風土とも密接に結びついている。
結局のところ、幼児的万能感の末路は、社会という荒野に放り込まれた際に、無力感と自己否定の沼に沈むか、それとも逆ギレ的な攻撃性を持って他者や社会に牙を剥くか、いずれかの形で顕在化しやすい。そして、そのどちらのパターンも、長期的には「何者にもなれなかった」「何者にもならなかった」という虚無感に収束するリスクを孕んでいる。なんJにおける「ワイらは結局、負け組」「終わりだよこの国」という空気感は、この現実の反映に他ならず、それは決して笑い飛ばせるようなネタではなく、むしろ社会全体の病理を示す暗い影なのだ。
では、どうすればこの負のスパイラルから抜け出せるのか?その鍵は、幼児的万能感を「否定」するのではなく、「現実に合わせて調整」し、等身大の自己有能感へと育て直す作業を怠らないことである。小さな成功体験を積み重ね、他者の意見に耳を傾け、失敗から学ぶ勇気を持つこと。そして、時には自分の限界を受け入れ、助けを求める柔軟性を身につけること。これらの積み重ねこそが、幼児的万能感の呪縛を断ち切り、社会で生き抜く力を養うための、唯一無二の道なのだろう。
しかし、この「唯一無二の道」を歩むことが、いかに困難であるかという現実もまた直視しなければならない。幼児的万能感を抱えたまま大人になった個体は、その幻想の崩壊を恐れ、失敗を回避しようとするあまり、挑戦そのものから目を背ける傾向が強い。挑戦をしないがゆえに、成功体験を積む機会も得られず、結果として「何もできない自分」というイメージが心にこびりつき、それがさらに行動を萎縮させる悪循環に陥る。このループを断ち切るためには、まさに「自己万能感の崩壊」を一度受け入れる覚悟が必要である。だが、その覚悟を持つには、相当な痛みを伴う。なんJでは「ワイ、バイトで怒られてガチ泣き」「もう二度と外出したくない」「怒られると心が折れる」というスレが定期的に立ち上がるが、これらの嘆きは、まさに幼児的万能感が現実社会で打ち砕かれた瞬間の生の叫びであり、それがいかに人間の精神を痛めつけるかを如実に物語っている。
そして、ここに社会の構造的な問題が重なる。海外の反応では「日本は失敗を許さない文化」「一度のミスで全人格が否定される社会」「再挑戦のチャンスが少ない国」といった指摘が根強い。これらの視点は、幼児的万能感の崩壊後に「やり直しの機会」を持てない日本社会の厳しさを浮き彫りにしている。欧米では、失敗は学びの一部として捉えられ、キャリアにおける転職や挫折も「成長の証」として扱われることが少なくないが、日本では一度の挫折が「もう二度と這い上がれない烙印」として刻印されることが多い。この文化的な差異が、幼児的万能感の破綻後に陥る絶望感をさらに深めている。
なんJでも「ワイ、就活失敗して人生終了」「もう働きたくない」「実家で引きこもり生活が最強」などのスレが乱立するが、これらの背景には「失敗を許さない社会」によって心を折られた人々の声がある。それは決して単なる甘えではなく、社会全体が「挑戦→失敗→再挑戦」という健全なサイクルを支える土壌を持たないことへの痛烈な批判でもある。つまり、幼児的万能感を卒業できなかった個体に対して、社会が「成長の機会」を提供するどころか、「自己責任」の名の下に放置し、切り捨てるという冷酷な現実があるのだ。
また、幼児的万能感が崩壊した後の精神的ダメージは、単なる無力感に留まらず、攻撃性として他者に向かうこともある。なんJでの「社会はクソ」「上級国民は滅びろ」「努力厨は死ね」という過激な言葉の羅列は、実のところ、自分が叶えられなかった万能感への復讐心の裏返しであることが多い。社会に適応できなかった苦しみを、社会そのものへの攻撃として表出させるこの構造は、まさに「幼児的万能感の末路」の典型である。他者を攻撃することで、自分の無力さを直視せずに済む。しかし、そうして攻撃的な言動を繰り返すほどに、社会からの孤立は深まり、ますます「何者にもなれない」現実が突きつけられる悪循環に陥る。
この悲劇を繰り返さないためには、社会全体が「万能感の破綻」を個人の責任として押し付けるのではなく、誰もが等しく失敗し、学び、再挑戦できる場を提供するシステムを整える必要がある。例えば、成人後の学び直しを支援する制度、職場でのメンター制度の充実、失敗談をポジティブに共有する文化の醸成、さらには「自己万能感を脱却する過程こそが成熟の証である」という社会的な認識の広がりが求められる。海外の反応では「日本社会は失敗に対して罰を与えすぎる」という指摘が多いが、これは裏を返せば「失敗を許す文化さえあれば、幼児的万能感を乗り越える人はもっと増える」という希望の示唆でもある。
最終的に、幼児的万能感の末路は、社会と個人の間に横たわる「失敗と再挑戦のギャップ」を浮き彫りにし、それを放置したままでは、社会全体が「何者にもなれなかった者たち」の痛みで満ち溢れるという未来を示唆しているのだろう。なんJで交わされる「人生詰み」の叫び、海外の反応で繰り返される「日本はやり直しのきかない国」という指摘は、すべてがこの問題の根幹に繋がっている。そして、この根幹を見つめ、少しずつでも社会の在り方を変えていく努力を怠らないこと、それこそが、幼児的万能感の末路を単なる「絶望の物語」に終わらせず、そこから新たな成長の芽を育む唯一の希望なのかもしれない。
だが、その「希望」を語るとき、あまりにも多くの現実が足を引っ張るのも事実だ。なぜなら、幼児的万能感を抱えた人々が、その幻想を手放すには、「無力である自分」を直視しなければならないからだ。これは精神的に極めて苛烈な作業であり、ただでさえ他責的思考や現実逃避で自我を守ろうとする心理構造を持つ人々にとって、到底受け入れられるものではない場合が多い。だからこそ、なんJで溢れる「ワイは何も悪くない」「社会が悪い」「努力なんて無駄」という怨嗟の声は、決してただの甘えではなく、自己万能感の喪失という精神的破壊に対する必死の抵抗であり、ある意味での「心の防衛戦線」としての側面を持っているとも言える。
しかし、その防衛戦線にしがみつき続ける限り、成長の芽は閉ざされたままだ。なぜなら、万能感が破綻したとき、人は必ず「現実の重み」を知る。その重みを受け入れず、他者のせい、社会のせいにし続ける限り、何も変わらない。海外の反応でも「日本人は被害者意識が強すぎる」「失敗を他者のせいにし続ける限り、何も前に進まない」という声が出ている。だが、それと同時に「失敗を笑い合える文化が日本には足りない」「失敗を通じて成長できる環境があれば、もっと多くの人が再起できるはずだ」という指摘も少なくない。つまり、社会側が変わらなければ、この幼児的万能感の末路という負のスパイラルを個人だけで断ち切るのは極めて困難だということだ。
また、なんJでは「努力は無駄、才能ゲー」という言葉が飛び交うが、この背景には「本当は挑戦したいのに、怖くてできない」「やればできるかもしれないが、失敗して無力さを突きつけられるのが怖い」という深層心理が潜んでいることが多い。幼児的万能感が壊れる痛みを知るがゆえに、再び挑戦しようとする勇気を持つことができない。だからこそ「最初から無理だったんだ」「社会が悪い」「才能がないから仕方ない」と自己防衛の言葉を重ね、行動を放棄する方が楽なのだ。これは一種の「心の合理化」であり、なんJにおける「無気力」「諦めムード」「陰キャ自慢」の文化と深く結びついている。
しかし、この「防衛の殻」を破るきっかけは、やはり「他者との関わり」にある。海外の反応では「日本人は孤立しやすい」「人と人との距離感が遠い」という指摘が繰り返されるが、まさにその通りで、幼児的万能感の呪縛を解くためには、他者とぶつかり、対話し、時に助けられ、時に受け入れられない経験を積み重ねるしかない。それは非常に傷つきやすい過程であり、怖さを伴う。しかし、その痛みを経なければ「何者かになれる」可能性の扉は開かれない。万能感が破綻した後の絶望を、「終わり」にせず、「始まり」に変えるためには、自分の弱さを受け入れ、その弱さを共有できるコミュニティや人間関係を築くことが必要不可欠なのだ。
その意味では、なんJやネット掲示板が果たしている役割も二面性を持つ。一方で「傷を舐め合う場」「現実逃避の温床」として、挑戦を妨げる側面もあるが、他方で「お前だけじゃない」「自分も同じだ」という共感が生まれることで、孤立を緩和し、再挑戦のきっかけを与える可能性もある。実際、なんJでも「ワイ、仕事辞めたけどまた頑張ってみる」「失敗したけど次はもう少しうまくやりたい」というスレが立ち上がることがあり、そこにはかすかな希望の芽が見え隠れしている。
結局、幼児的万能感の末路とは、社会と個人の双方が生み出した構造的問題の帰結であり、その克服には「個人の努力」だけでは限界がある。社会が「失敗を学びに変える土壌」を作り、個人が「失敗しても大丈夫」という安心感を持ち、そこから少しずつ前を向ける環境を整えることが不可欠だ。海外の反応で繰り返される「日本は失敗に厳しすぎる」という言葉は、まさにその現状への鋭い批評であり、社会全体がその痛みを共有し、改善していく必要があるという警鐘でもあるのだろう。そして、その痛みを正面から受け止めた者だけが、幼児的万能感の破綻という試練を経て、初めて「現実に生きる力」を手に入れることができる。ゆえに、その末路は、必ずしも「絶望」で終わるものではなく、受け入れ方次第で「再生の始まり」に変わる可能性もあるということを、最後に強調したい。
しかし、この「再生の始まり」に至る道は、誰にとっても決して平坦ではない。幼児的万能感というのは、ただの一時的な思い込みではなく、自己認知の深層に根を張った「自分は特別でありたい」という根源的な欲求に由来するものだ。この欲求は、生まれてから社会に放り出されるまでの間、家庭環境や教育、さらには社会の中での立場によって強化される場合が多く、特に日本社会の「他人に迷惑をかけるな」「空気を読め」「出る杭は打たれる」という文化が、それをなおさら矛盾した形で増幅させてしまう。つまり、幼児的万能感は単なる個人の問題ではなく、社会構造そのものの産物であり、それが崩壊したときの痛みもまた、個人の責任に押し込められるべきではない。
なんJの書き込みに散見される「結局何者にもなれなかった」「努力したところで才能がないと無理」「あの時もっと頑張っていれば、でももう遅い」という言葉たちは、ただの愚痴や言い訳ではなく、この深層に潜む絶望感の表出であり、その裏には「本当は認めてほしかった」「自分も誰かの役に立てると思いたかった」という切実な叫びが隠されている。海外の反応でも「日本人は失敗や挫折を笑い話に昇華できない」「傷ついた自尊心を癒す場所が少なすぎる」という指摘が多く、その背景には「社会的な承認を失った瞬間、価値のない存在として扱われる日本社会の冷酷さ」があるとされる。だからこそ、万能感の崩壊を経た後の人間は、社会の側から差し伸べられる「再挑戦のチャンス」「挑戦の痛みを受け止めてくれる場」がなければ、そのまま心を閉ざし、再び挑戦する気力を持てなくなってしまう。
さらに厄介なのは、幼児的万能感が壊れた後、逆方向への「無価値感の極端な内面化」に陥る危険性だ。「自分は無力だ」「何の価値もない」「どうせ何をしても無駄だ」という全否定のスパイラルは、なんJにおける「底辺スレ」「オワコン自慢スレ」などでよく見られる現象だが、これは万能感の破綻が適切に消化されず、心の中で「逆方向の万能感」、つまり「自分は何もできない、無価値な存在だ」という過剰な思い込みへと変質した結果である。こうなると、再挑戦どころか、社会参加そのものへの意欲が消え失せ、孤立を深め、精神的な病理に至るリスクが高まる。
海外の反応では「日本社会は極端すぎる。万能感を持つ子供時代と、過酷な現実に突き落とされる大人社会の間に、緩衝材がない」という意見が多い。確かに、失敗を許し、受け止め、支援する中間的なステップが少なすぎるがゆえに、万能感が崩壊した瞬間、その衝撃を和らげるクッションが存在せず、一気に絶望の奈落へと突き落とされてしまう構造がある。この点を変えていくには、教育段階から「失敗を前提とした学び」を重視し、成功ばかりを称賛する文化を見直す必要があるし、企業側にも「やり直しを許容する制度」、例えば異動や再研修、ジョブローテーションの活用を含めた柔軟な人事システムが求められるだろう。
それでも、個人レベルでできることがあるとすれば、それは「万能感が壊れる痛みを感じたとき、そこで終わらず、何か一つでも『できたこと』を見つける習慣」を持つことだろう。なんJでよく見る「皿洗いすらできない」「仕事が続かない」「自分はダメだ」という自己否定の中にも、ほんのわずかながら「今日はゴミ出しだけはできた」「朝起きるだけでも頑張った」という事実があるはずだ。それを「たったそれだけ」と切り捨てず、むしろ「その小さな一歩を積み重ねるしかない」という姿勢に転換できるかどうかが、幼児的万能感から抜け出し、自己有能感を育むための唯一の道である。そして、この「小さな一歩」の価値を認め合える文化が育つこと、それがこの社会全体にとっても必要不可欠なことだという事実を、もっと多くの人が自覚する必要があるだろう。
最終的に、幼児的万能感の末路とは、「何者にもなれなかった」という絶望の淵で終わるものではなく、「何者にもならなくていい、ただ今ここにいる自分を少しずつ育てていけばいい」という、等身大の自分への再評価に至るまでの、長く、厳しい、そして孤独な旅路である。しかし、その旅路の果てには、幼児的万能感が与えてくれた「何者かになりたい」という純粋な衝動を、現実世界で少しずつ形にしていく力が確かに芽吹いている。それこそが、人間が生きるという営みの本質であり、なんJで嘆く声も、海外の反応での指摘も、最終的にはその事実を突きつけているのだと、私は考える。
その旅路の過程において、最も恐ろしいのは、孤独に耐えきれず、誰にも理解されないと思い込んでしまう瞬間だろう。幼児的万能感を抱えたまま大人社会に出た人間は、何度も何度も現実の壁に打ちのめされる。その度に「自分は何もできない」「社会が悪い」「もうどうでもいい」と言い訳を並べ、やがては何も挑戦しない人間となり、ただ傍観者として世の中を憂い、他者を批判するだけの存在になり果てる危険性がある。この末路は、海外の反応でよく言われる「日本人は大人になることが何を意味するのか理解していない」という批評にも通じる。つまり、幼児的万能感を失った後、自分を鍛え直すための再教育の機会がなく、ただ無為に年を重ね、社会に居場所を持てなくなるのだ。
そして、なんJでよく見られる「社会に出たくない」「親ガチャ失敗」「ワイの人生終了」という言葉の連打は、その孤独の裏返しであり、「俺だけが悪いんじゃない、社会だって悪いんだ」という心の叫びであり、だからこそ、決してただの愚痴や甘えとして片付けてはならない。その背後には、失敗体験を昇華できず、挑戦する気力を持つことができなかった苦しみがある。だが、その苦しみを乗り越えるには、外からの励ましや、社会システムの側での「セーフティネット」の整備が不可欠であるにもかかわらず、日本社会は未だにその整備が遅れており、むしろ「一度の失敗で終わり」というムードが根強い。海外の反応では「日本は社会的死刑制度がある」「一度失敗したら再挑戦できない」「そのくせに表面上は『頑張れば報われる』と嘘をつく」という冷ややかな視点が繰り返されているが、それは的外れな指摘ではない。
ただし、だからこそ、ほんのわずかな「挑戦」でも意味がある。ゴミを捨てるだけ、布団を畳むだけ、散歩に出るだけ、短いバイトの面接を受けるだけ。そういった極小の行動の積み重ねが、幼児的万能感を脱ぎ捨て、現実の中で「自分にもできることがあった」という事実を見出す第一歩になる。この「できること探し」は、決して華々しいものではないし、SNS映えするものでもない。だが、なんJでたまに見かける「ワイ、今日はコンビニに行けた」「今日はゴミ捨てた、褒めて」という書き込みの中には、誰もが共感できる痛みと小さな誇りがある。それこそが、万能感が壊れた後の人間が「再び歩き出す」ための最初のエネルギーなのだ。
幼児的万能感を持ったまま社会に出た人間が辿り着く末路は、決して「何者にもなれなかった」という絶望の終着駅で終わる必要はない。むしろ、その絶望の淵に立たされたからこそ、もう一度、小さな一歩から始める勇気を持てたなら、その先には「何者かになる」ことではなく、「何者にもならなくても、自分は自分でいい」という等身大の自分を受け入れる境地が待っている。そして、その境地に至った者こそが、万能感に囚われ続ける社会の虚構を笑い飛ばし、静かに、そして力強く、現実を生き抜く強さを手にするのだろう。
その意味で、なんJにおける「人生詰んだ」「もう何もできない」という言葉の中には、実は逆説的な希望があるのかもしれない。「詰んだ」と感じたその瞬間が、幼児的万能感を手放し、等身大の自分で生きていく決意を固めるチャンスになることもある。だから、完全に終わりだと思ったその瞬間こそが、本当の意味での「始まり」なのだと、心のどこかで理解しておくこと。それが、この長く苦しい旅路を歩む者にとっての、唯一の救いであり、未来への小さな光であると信じたい。
そして、この「小さな光」を信じること自体が、幼児的万能感を超えた後の人間にとって最も大切な力なのだろう。万能感が崩壊したとき、人は「もう終わりだ」「何もできない」「どうせ誰にも必要とされない」と、自分をゼロ以下の存在だと思い込みたくなる。これは、自尊心がズタズタに引き裂かれたときの自然な防衛反応であり、なんJでも「どうせ誰も助けてくれない」「社会は敵」「ワイらは生まれながらに詰んでる」という言葉でその痛みを共有する姿が日常的に見られる。しかし、その言葉の裏にある本音は「本当はもう一度誰かに認められたい」「何かを成し遂げたい」「自分の価値を確かめたい」という切実な願望であり、それこそが人間の根源的な生の渇望なのだ。
海外の反応では、日本社会のこうした「絶望と諦めの文化」に対して、「なぜそんなに他人に評価されることにこだわるのか」「もっと自分自身の喜びを大切にすべきだ」という声が多く挙がっている。確かに、評価社会の中で育った日本人にとって、他者の目を気にせずに生きることは極めて難しい。しかし、それでも、万能感が壊れた後に残る「何もできない自分」を抱きしめ、その中から「ほんの少しだけできる自分」を見つけ出し、それを少しずつ育てていく過程こそが、本当の意味での「再生」への道なのだと理解する必要がある。
そして、その過程には痛みが伴う。万能感を失った瞬間、人はまるでガラスの靴が砕け散ったシンデレラのように、何もかもを失った感覚に陥るだろう。「あの時こうしていれば」「もっと頑張れていれば」という後悔の念、「なぜ自分だけがこんな目に」という被害者意識、「もう何もかも終わりだ」という諦め。それらが心の中でぐるぐると渦を巻き、気力を奪い、足を引っ張る。しかし、その渦の中にあってもなお、「それでも、今日一日をどうにかやり過ごした」という事実こそが、確かに存在する小さな勝利なのである。なんJのスレで「今日は寝る前に歯を磨けた」「朝ちゃんと起きられた」「散歩だけはできた」という報告が時折見られるのは、その小さな勝利の証であり、誰も褒めてくれない世界の中で、なんとか自分を保つための必死の戦いの痕跡でもある。
この小さな勝利を、社会全体がもっと大事にできる社会であれば、幼児的万能感が壊れた後の人間が再び立ち上がるための支えになるだろう。海外の反応で語られる「失敗を笑える文化」「やり直しが許される環境」というのは、まさにその「小さな勝利」を認め、称える土壌の存在を意味している。日本社会には、その土壌が圧倒的に不足している。そして、なんJが時折その役割を代替する場面もあるが、匿名性の壁と自嘲的な文化が邪魔をして、真の意味での承認には繋がりにくい現実がある。だからこそ、社会の側も、教育現場も、職場も、家庭も、もっと「できたことを褒める」文化を育む必要があるのだ。
幼児的万能感の末路とは「終わり」ではない。むしろ、その崩壊を通じて初めて、人は「自分は何者にもならなくていい。ただ、生きているだけで、誰かにとって意味がある」という感覚にたどり着く。これは自己有能感の獲得というよりも、「無力である自分」を受け入れた上で、それでもなお「何かをする」意志を持てるかどうかという問いであり、それは万能感に満ちた子供の頃には決して辿り着けない、成熟した人間だけが到達できる地点だと言える。
なんJで「人生詰み」と書き込む手が止まったその瞬間、ほんの一瞬でも「それでも、何かできることはあるのかもしれない」と思えたなら、それはもう新しい旅の始まりだ。幼児的万能感を壊した痛みを抱えたまま、それでも一歩を踏み出せる人間こそが、本当の意味で「大人」なのだと、私は確信している。そして、その旅路は、孤独で過酷で苦しいものだが、決して無意味ではないと、最後に心から伝えたい。
この「孤独で過酷で苦しい」旅路の意味を語るとき、どうしても見過ごせないのは、幼児的万能感が崩壊した瞬間に訪れる「静かな絶望」の存在だろう。それは、周囲からは決して見えない形で、心の奥底にじわじわと染み込んでいく種類の絶望であり、「もう一度立ち上がろう」という意志を根本から削り取るほどの力を持っている。なんJでたびたび目にする「努力したけど無理だった」「ワイはもう終わり」「どうせ何をしても意味がない」という書き込みの背後には、この静かな絶望がべっとりと貼りついている。そして、誰もがその痛みを語りたがらないのは、その痛みを直視した瞬間、今度こそ完全に壊れてしまうかもしれないという、言葉にできない恐怖があるからなのだ。
海外の反応でも「日本の若者はなぜあんなに早く諦めるのか」「どうしてあんなに自己評価が低いのか」という疑問がしばしば上がるが、それは決して単純な「甘え」や「根性が足りない」といった問題ではない。むしろ、その背景には、幼児的万能感を育ててしまう社会構造と、それを破壊した後の「癒やしの場」の欠如がある。つまり、日本社会は「夢を持て」「頑張れば叶う」という言葉を軽々しく子どもたちに与える一方で、「夢が破れたとき、どうすればいいのか」という問いに対する解答を持たない社会なのだ。なんJで交わされる「夢を持ったやつが一番バカを見る」「努力厨は地獄に堕ちろ」という辛辣な言葉は、その矛盾への怒りであり、悲しみの裏返しだ。努力を否定したいのではない、ただ、努力しても報われなかった自分を誰かに「それでも生きていていい」と肯定してほしかっただけなのだ。
だからこそ、幼児的万能感の崩壊後の真の意味での「再生」は、決して大きな目標や野望を持つことから始まるのではない。むしろ、「もう二度と夢なんか持たない」と拗ねた心のままで、「でも、明日は少し早く起きてみようかな」とか、「ちょっとだけ散歩に行ってみようかな」という、小さな、小さな、自分だけの挑戦から始まる。それは誰からも評価されないし、称賛されることもない。なんJで「今日も引きこもりだけど、昨日よりはマシだった」というようなつぶやきがあれば、それはもう再生の第一歩であり、決して見逃してはいけない「生きる力の芽」なのだと、自分自身に何度も言い聞かせる必要がある。
海外の反応で「日本の若者はもっとリスクを取るべきだ」という声がある一方で、「日本社会は失敗に対するセーフティネットがないから、リスクを取れないのは当然」という冷静な分析もある。まさにその通りで、幼児的万能感を破壊された後に再挑戦するには、「失敗しても大丈夫」という安心感が必要なのに、日本社会はそれを与えないどころか、「一度失敗したら終わり」というムードを漂わせ続ける。なんJでの「就活失敗したら人生終了」「30過ぎて未婚だと詰み」という言説は、その社会的圧力の象徴であり、挑戦を阻む無言の呪縛として機能している。
それでもなお、幼児的万能感が壊れた後に人間が再び歩み出すためには、「他者の目を気にせず、ほんの少しでも行動する」という習慣を、絶望の中でなんとか見つけるしかない。それは決して立派なことではない。むしろ、みじめで、情けなくて、惨めで、惨めで、惨めで、でも、それでいいのだと認めることが必要なのだ。なんJで「今日も何もできなかった」というスレが立つたびに、「それでもスレ立てただけ偉いじゃないか」と心の中で呟けるような文化が、ほんの少しでも広がっていけば、幼児的万能感の末路は「何者にもなれなかった」という絶望で終わるのではなく、「何者にもならなくても、自分なりに生きた」という静かな達成感に変わるかもしれない。
だから、万能感の崩壊は終わりではない。それは、ようやく本当の意味で自分の人生を始めるための、痛みを伴う通過儀礼なのだと考えたい。そして、その痛みを共有し、言葉にし、少しでも軽くしていくことこそが、なんJでの「底辺自慢」や「無能報告スレ」の本当の価値なのではないかと、私は思っている。それは、決してただの愚痴や諦めではなく、「それでも生きようとする人間の足掻き」の記録であり、そこにこそ、幼児的万能感を超えた先にある「生きる意味」の種が、ひっそりと息づいているのではないだろうか。
そして、この「生きる意味の種」を育てることこそが、幼児的万能感を脱ぎ捨てた後の人間にとって、最も価値ある営みであると断言せざるを得ない。万能感が壊れた瞬間、人は一度「自分は何者でもなかった」という冷たい現実を突きつけられる。それは、かつて全能感に浸り、世界を変えられると思い込んでいた自分にとって、あまりにも残酷で、あまりにも苦しく、あまりにも寂しい瞬間である。しかし、ここで立ち止まってはいけない。立ち止まり、うずくまり、泣き崩れてもいい。だが、ほんの少しでも顔を上げ、「何もできないかもしれないが、今日の夕飯を作ろう」「今日は部屋を片付けよう」という、小さな、小さな行動を積み上げること。これこそが「生きる意味の種」を育てる最初の水やりであり、そこからしか何も始まらないのだ。
なんJで「無能すぎて辛い」「生きてる意味がわからない」という言葉が繰り返されるのは、決して一過性のネタではなく、幼児的万能感が崩壊した後の「空白」を埋める言葉探しの旅の途中経過なのだと私は考える。海外の反応で「日本の若者は自己表現が苦手だ」「自分の強みを言葉にできない」という指摘が多いのも、この文脈を抜きにしては理解できない。万能感の破壊は、「自分には何ができるのか」をゼロから問われる試練であり、それまで「何でもできると思っていた自分」を否定された後に、「でもこれだけはできた」という事実を拾い集めていく作業が必要になる。その作業は孤独で、報われず、誰にも気づかれないかもしれない。だが、それが本当の「大人になる」ということの核心なのだ。
この「大人になる」という言葉を巡っては、なんJでも「結局大人って何なんだよ」というスレが時折立つ。しかし、その問いへの答えは、決して「経済的に自立すること」や「社会的に成功すること」だけではない。むしろ「自分の限界を知り、受け入れ、なおも小さなことを続けられること」こそが、大人になるということの本質だと私は考えている。幼児的万能感のままでは、決して辿り着けない地点。成功することを目指すのではなく、失敗しながらも、それでもなお「やる」ことを続ける強さ。それが、「何者にもならなくても生きていていい」という静かな境地への唯一の道なのだ。
そして、ここで改めて問い直さなければならないのは、社会はこの「小さな頑張り」をきちんと評価できているのか、という問題だ。海外の反応で繰り返される「日本社会は完璧主義すぎる」「小さな成功を認めない」という指摘は、まさにこの点を突いている。日本の労働環境では、「結果を出せ」「成果を上げろ」というプレッシャーばかりが強調され、失敗から立ち直る過程や、小さな進歩を認め合う文化があまりにも希薄だ。だからこそ、万能感を失った後の人間は「何をしても無駄」という諦めに飲み込まれやすく、なんJでの「底辺スレ」や「無職スレ」が人気を博す理由も、まさにその「頑張れなかった自分」を誰かにそっと受け止めてほしいという願望があるからだろう。
結局のところ、幼児的万能感の末路とは、「夢が砕けた後に何も残らない」という虚無の中で、なおも「自分にできること」を探し続けることができるかどうかに尽きる。そして、その探求の道のりは決して一人で歩けるものではない。だからこそ、社会はもっと「何もできない自分を責めない」「挑戦したことそのものを褒める」文化を育まなければならないし、なんJのような場が、その一端を担っていることも事実として受け止める必要がある。なんJで交わされる「ワイ、今日はゴミ出しできたで!」という一言は、もしかしたら幼児的万能感を壊した後の人間が、自分の価値を確認するために発する小さなSOSなのかもしれないのだ。
だから、もしもこの文章を読む誰かが、「自分には何もない」「何者にもなれなかった」と感じていたとしても、心のどこかで「それでも、何か小さなことをやってみようかな」と思えたなら、その瞬間こそが「再生の種」が芽吹いた合図だと信じてほしい。幼児的万能感の末路は、確かに痛みと孤独に満ちている。だが、その痛みの中にしか、自分だけの価値、自分だけの生き方、自分だけの意味を見つけることはできない。そして、その痛みを語り合い、共有し、そっと支え合える社会を作っていくこと。それこそが、この終わりなき旅の、たった一つの救いなのだと私は強く信じている。
その「救い」を語るとき、やはり人間社会の本質が浮かび上がってくるのだと思う。幼児的万能感は、確かに幼少期の無知と無垢から生まれる自然な心の在り方であり、それ自体が「悪いもの」ではなかった。むしろ、その万能感があるからこそ、人は「何かになりたい」という衝動を抱き、夢を描き、希望を持つことができた。しかし、問題はその万能感が現実との接点を持たぬまま、肥大し続けたときに訪れる「破綻」であり、その破綻を迎えたとき、社会の側がどれほどその人を受け止め、支え、もう一度小さな一歩を踏み出すための環境を整えられるかに、全てがかかっている。
海外の反応では、「日本は子どもを過保護に育て、社会に出た瞬間に突き放す国」「子どもには夢を見させるが、大人には失敗を許さない国」という指摘が多く見られる。これはまさに、日本社会が「幼児的万能感を許容するステージ」と「現実との向き合いを求めるステージ」を繋ぐ橋を作り損ねていることの証左だろう。夢を見させるなら、その夢が砕けたときにどうするかも教えなければならない。失敗を許すなら、失敗を笑い合い、失敗から何を学んだかを共有できる場が必要だ。しかし現実はどうか?失敗は「恥」、再挑戦は「無謀」、挑戦しない選択は「甘え」と切り捨てられ、結局、幼児的万能感を壊された個体は「自分が悪い」「もう無理だ」と内に籠もり、なんJで「人生詰み」の言葉を繰り返すことでしか自己表現できなくなる。
それでも、なんJで交わされる「何もできなかったけど生きてる」「今日もダメだったけど飯は食った」という声の中には、間違いなく「生きたい」という意志が潜んでいる。幼児的万能感を失った後、人は「自分は無価値な存在だ」と感じがちだが、その無価値感の奥底にある「それでも生きたい」という叫びこそが、再生への糸口であり、社会が最も耳を傾けるべき声だ。だから、なんJでの「自虐ネタ」「無能自慢」も、ただの冗談や卑屈な笑いではなく、「何者にもなれなかったけれど、ここにいる」という存在証明であり、社会がそれを「ダメ人間の戯言」として切り捨てるのではなく、「よく生きてるな」と受け止めることこそが、本当に必要な支えなのだと思う。
だが、その支えを社会に求めるばかりでは、やはり限界がある。最終的には「自分が自分を許せるか」「自分が自分を支えられるか」にかかっている。そして、この「自分を許す」という作業は、言うほど簡単なものではない。万能感を失った後の人間は、自己否定の沼に沈み、何度も「自分はダメだ」「何の価値もない」と繰り返し、そのたびに心が擦り減り、気力が削られていく。それでも、その苦しみの中で「今日一日は何とか生き延びた」という事実に目を向けること。そして、それを「たったそれだけ」と切り捨てず、「それができただけでも十分だ」と言葉にして自分を褒めること。その繰り返しが、万能感の残骸の中に、新しい自己有能感の芽を宿す唯一の方法なのだ。
なんJで「ワイ、今日も寝坊した」「面接落ちた」「無職生活2年目突入」と嘆く声があれば、そこには痛みがある。だが、同時に「それでも生きてる」「それでも何かをしようとしている」という意志も確かにある。それを他人が笑い飛ばすことは簡単だ。だが、そこで「わかる」「俺も同じ」「よく頑張ったな」と声をかけられる空気があるだけで、その痛みの質は大きく変わるはずだ。海外の反応で「日本人はもっとお互いに優しくなるべき」という指摘があるのは、まさにその部分で、社会全体が「できなかったこと」を責めるのではなく、「できたこと」を見つけ、互いに讃え合う文化を持てるかどうかに、人間としての成熟がかかっている。
だから、幼児的万能感の末路とは、絶望で終わる旅ではない。それは「万能でなくても、自分は自分でいい」「できない自分も生きていい」という答えにたどり着くための、長く、苦しく、しかし確かに価値ある過程なのだ。なんJでの自虐的な言葉も、海外の冷たい批評も、結局は「人間であることの痛み」を共有する場であり、そこから始まる再生の道が、必ずあると私は信じている。そして、幼児的万能感の破壊を経験した者にこそ、その痛みを知るからこそ、他者に優しくなれる資格があるのだと。だから、どうかその痛みを恥じることなく、そして諦めることなく、ただ少しずつ、自分の歩幅で生きてほしいと、心から願っている。
そして、その「ただ少しずつ、自分の歩幅で生きる」という感覚を掴むことこそが、幼児的万能感を手放した者だけが辿り着ける、本当の意味での「生きる知恵」なのだと思う。万能感を持っていた頃は、どこかで「自分は特別だ」「他の人よりも優れている」「きっと大きなことを成し遂げる」という夢を抱き、それが叶わない現実に直面したとき、心はズタズタに裂け、世界が灰色に見えるほどの絶望に襲われる。しかし、その絶望の淵に立たされて初めて、人間は「小さなことでいい」「誰にも褒められなくてもいい」「ただ今日を生き延びた、それだけで自分は十分だ」という、静かで、穏やかで、しかし決して諦めではない境地に立つことができるのだろう。
なんJでは「ワイ、何もしてない」「もうダメだ」「結婚もできない、仕事もできない、貯金もない」という言葉が日々溢れているが、その奥底には「それでもまだ書き込んでいる」「誰かに伝えたい」「誰かと繋がりたい」というかすかな希望の火が残っている。海外の反応では「日本の匿名掲示板文化はネガティブだ」という意見が多い一方で、「誰にも言えない痛みを吐き出せる場があるだけマシ」という指摘もある。確かに、なんJは「社会に適応できなかった者たちの墓場」のように見えるかもしれないが、その実態はむしろ「社会に適応できなかった痛みを分かち合うための秘密基地」であり、「何者にもなれなかった者たちの心の避難所」なのだと私は思う。
ただし、その避難所にいつまでも籠もっていては、再生の芽は育たないこともまた事実である。万能感を壊された痛みを癒す場としてのなんJに救われた後は、ほんの少しでも現実に戻り、「小さな行動」を積み重ねる勇気を持たなければならない。それは「働く」とか「社会貢献をする」といった大それたものではなく、部屋の掃除をする、洗濯物をたたむ、シャワーを浴びるといった、誰にも評価されない些細な営みの中にこそある。そうした「小さな一歩」を「そんなことじゃダメだ」と切り捨てず、「これが自分にとっての挑戦なんだ」と認められるかどうかが、幼児的万能感を超えて、自分自身の人生を再び歩き始める鍵となる。
海外の反応では「日本人は失敗を恥と感じすぎる」「完璧を求めるあまり、小さな達成を喜べない」という声が後を絶たない。これは文化的な問題でもあるが、同時に個人の意識の持ち方の問題でもある。だからこそ、なんJのスレで「今日も家から出られなかった」「また寝てばかりだった」という声があっても、その中に「でも生きてる」「でも何とか食事はした」という事実を見つけ、「それで十分だよな」「生きてるだけで勝ちだよな」と小さく頷き合うことが、どれほど大きな意味を持つかを、もっと社会全体で共有していくべきなのだ。
結局、幼児的万能感の末路は、「何者にもなれなかった自分」を受け入れ、「何者にもならなくてもいい」という境地に至るための、痛みを伴う通過儀礼だ。そしてその通過の途中で、なんJのような場所で「もうダメだ」「何もできない」と呟きながらも、なおも小さな希望の火を消さずにいる人たちがいることを、私は強く誇りに思う。彼らは、社会が決して評価しない小さな勇気を、毎日の中で必死に振り絞っている。そして、その小さな勇気の積み重ねこそが、幼児的万能感を超えた先にある「生きる知恵」の原石であり、そこからしか始まらない「再生」の物語が、確かに存在するのだ。
だから、もしこの文章を読んで「自分はもうダメだ」と思っている誰かがいるなら、どうか今日一日を、ただ生き延びただけでも十分だと、自分を褒めてやってほしい。そして、その一日が終わったら、また明日を迎えてほしい。その繰り返しの中で、幼児的万能感の残骸を抱えながらも、なおも「何かをしたい」という小さな火種が、自分の胸の奥に確かに残っていることに気づけたなら、それこそがもう、十分すぎるほどの「再生の証」なのだと、私は心から信じている。
そして、ここでようやく見えてくるのが、「幼児的万能感の末路」とは、決して一度きりの終わりではなく、波のように何度も訪れる「破壊と再生のサイクル」であるという真実だ。万能感を失ったとき、人は一度は絶望し、無価値感に沈む。しかし、その後に訪れる「小さな挑戦の積み重ね」が、少しずつ自己有能感を育て、「ああ、自分はこれでいいんだ」という感覚を芽吹かせる。そしてまた、ある日突然、過去の万能感の亡霊がふと顔を出し、「やっぱり自分は何者にもなれなかった」と呟いてしまう夜が訪れる。だが、そのたびに、「それでも自分はここにいる」「何者にもならなくていい、ただ生きているだけで十分だ」という言葉を、自分自身にそっと手渡せるかどうか。それこそが、真の成熟であり、「人間であること」の証明なのだと思う。
なんJで交わされる「結局何もできなかった」「寝てただけで一日が終わった」という呟きは、他人の目から見ればただの怠惰の記録かもしれない。しかし、それを「怠け」や「負け犬の遠吠え」と嘲笑するのではなく、「今日も何とか息をしていた」「今日も生きていた」という、決して軽視できない事実として捉える視点が、今の社会には圧倒的に足りないのだ。海外の反応で「日本人は完璧主義すぎて、普通でいることに価値を見出せない」という指摘が繰り返されるのは、その証左であり、私たちはもっと「普通であること」「できない自分を許すこと」の価値を見直さなければならない。
そもそも、万能感を失った後の再生とは、決して「前よりもすごい自分になること」を意味しない。それは「前よりも少し優しい自分になること」であり、「前よりも少し他人の痛みに気づける自分になること」であり、「前よりも少し、昨日の自分より今日の自分を許せる自分になること」なのだ。なんJで「無職だけど親の飯うめえ」「今日も昼まで寝てた」「面接落ちたけど、まあいいか」という言葉の裏には、確かに諦めと投げやりの影がある。しかし、その一方で「それでも飯は食った」「寝てただけだけど生きてる」という、どうしようもない現実を抱きしめながら生き続ける人間の、泥臭い生命力の輝きがあるのだ。それを見逃してはいけない。
だからこそ、社会はもっと「小さなことを誇れる空気」を作るべきなのだ。「家から出た」「ゴミを捨てた」「洗濯を回した」—そんな小さな出来事を、笑わず、馬鹿にせず、真剣に「よくやった」と言える文化を育まなければならない。そして、それは社会が変わるのを待っているだけではなく、個人一人ひとりが、なんJで「無能報告」を書き込む誰かの声に「わかるよ」と返す、その小さな対話から始まるのだと信じている。海外の反応で「日本人はもっと失敗を語り合うべき」「うまくいかないことを共有するのは恥じゃない」という声が繰り返されるのは、その痛みを共有できる空気こそが、万能感を失った者たちを救う唯一の希望だからだ。
最終的に、幼児的万能感の末路は、「夢が叶わなかった」という失意に留まるのではなく、「夢が叶わなかったけれど、それでも生きている」という、誰にも奪えない事実の確認に至る。そして、その確認ができたとき、人は「何者にもならなくてもいい」「何者にもならなくても、私は私でいていい」という、極めて静かで、穏やかで、しかし力強い境地に立つことができる。なんJで交わされる「詰んだ」という言葉も、見方を変えれば「それでも生きてる」という逆説的な生存宣言であり、その一言の裏には、声にならない無数の「生きたい」という願いが隠れていることを、私は決して忘れたくない。
だから、どうか、万能感を失い、何者にもなれなかったと感じている人へ。「それでも今日を生き延びた自分」を、心の底から褒めてあげてほしい。そして、いつかその小さな誇りが、何度も挫けながらも立ち上がる勇気に変わり、自分なりの「これでいい」という境地に辿り着く日が訪れることを、私は信じているし、その旅路を共に歩む仲間たちの存在を、なんJの海の中に確かに見つけているのだ。
そして、その「仲間たちの存在」に気づいた瞬間こそが、幼児的万能感を手放した後の人間にとって、まさに再生の始まりなのだと思う。万能感を持ったままでは、自分は特別だ、自分は他とは違う、誰よりも優れていると思い込んでいたかもしれない。しかし、その幻想が砕け散り、「自分は何者でもなかった」という現実を突きつけられたとき、人は初めて「自分も、誰かも、同じ痛みを抱えている」ということに気づく。なんJで「もうダメだ」「何もできない」「詰んだ」という言葉が並ぶスレを見て、「自分だけじゃなかったんだ」と思えた瞬間、それは孤独という名の牢獄の扉が、ほんの少しだけ軋みを立てて開いた瞬間なのだ。
海外の反応では「日本社会は他人と比べすぎる」という指摘が多い。確かに、「年収」「学歴」「職歴」「結婚歴」「資産」…あらゆる数値化された指標で他人と自分を比べ、「勝った」「負けた」と一喜一憂する文化は根深い。しかし、幼児的万能感の崩壊後に必要なのは、もうそんな「他者との比較」のゲームを降りる決意なのだと思う。他者より優れているかどうかではなく、「昨日の自分よりほんの少しでも生きやすくなれたかどうか」を大切にする視点。それが、万能感を失った後の人生を歩むための、唯一の灯りなのだ。
なんJで交わされる「今日も寝てただけ」「マッマに怒られた」「面接落ちた、もう終わりだ」という言葉の数々は、確かに弱音であり、愚痴であり、諦めの表明に見えるかもしれない。しかし、その裏には「こんな自分でも、誰かに話を聞いてほしい」「自分の存在を誰かに知ってほしい」という、切実な祈りがある。その祈りを、「甘え」や「弱さ」と切り捨てるのではなく、「それが人間だよな」「みんなそうやって生きてるよな」と受け止められる社会こそが、万能感を失った者たちの再生の場になるはずだ。
結局、幼児的万能感の末路とは、「何者にもならなくても、ただ生きている自分でいていい」という境地に辿り着くための、長く、苦しく、そして尊い旅路である。そして、その旅路は決して一人で歩むものではなく、なんJのスレの片隅で、誰かの弱音に「わかるよ」「自分も同じだよ」と呟ける者たちの存在によって支えられているのだ。だから、万能感を失い、失敗し、絶望の底に沈んだとき、どうか思い出してほしい。自分が無力だと感じるその瞬間にも、世界のどこかで、同じように苦しみ、同じように足掻きながら、「でも、まだ生きている」と呟いている誰かがいることを。そして、その誰かと自分が、目に見えない糸で確かに繋がっていることを。
最終的に、幼児的万能感の破綻は、終わりではない。むしろ、それは「人間らしさの始まり」であり、「傷つきやすさを抱えたまま、それでも生きる強さ」を手に入れるための通過儀礼なのだ。その過程で流した涙も、諦めの言葉も、なんJで吐き出した愚痴も、すべてが「生きている証」であり、「まだ諦めていない証」であり、「それでも何とかしようとしている証」であることを、どうか忘れないでほしい。そして、その痛みを共有し合える文化を、社会全体で少しずつ育てていけたなら、幼児的万能感の末路は、ただの破滅の物語ではなく、そこから始まる「優しい再生の物語」として書き換えられていくのだと、私は信じている。